家族関連の悩みを抱えている人は多いと思います。
直接家族と揉めていなくても、知らず知らずのうちに大なり小なり幼少期の問題が後を引いて影響を受けている、という人は多いでしょう。
著者の幡野広志さんは34歳の時にがんで余命宣告をされた方です。
人は余命宣告されると、自分が残りの人生において、さまざまな場面において「選ぶ」ことを迫られます。
何を捨てるのか、何を諦めるのか、何を残すのか、優先順位が高いのはどれなのか。
今まで知らず知らずのうちに、選んだ自覚はないかもしれないけれど、選んでいるものは多々あります。
「選ばない」「決めない」ということですら、「選ばない、という選択肢を選んだ」ということに気付いていない人は多いです。
自分は常に選んでいるということを早くに自覚するのは、人生を充実させる方法の一つです。
選ぶと言うことは、自分にとって優先順位が高いのは何か、ということを自覚することに繋がるからです。
家族などはそんな選択において、純粋に大切という場合もありますが、逆に縛られているという意味でも残りやすいものの一つです。
最も捨てにくいもの、でもあるのでしょう。
この本は闘病記とかではなく、家族を含めて、選ぶこと、について描かれた本です。
NASAの家族の定義
この本で最も驚いたのはアメリカのNASAにおける家族の定義です。
日本はもともと「家族」や「家」を大事にするという歴史もあってか、「選ぶ」というより「決められたもの」の意識が強い「家族」。
しかし、NASAにおける家族における家族の定義は、「選ぶ」ことをとても大切にしていることが伝わります。
NASAの定義は明確だ。
①配偶者
②子ども
③子どもの配偶者までが、「直系家族」なのだ。
父親も、母親も、兄も、弟も、姉も、妹も、特別室に入ることはできない。血がつながっているはずの彼らは、みな「拡大家族」に分類されているのだ。しかも「拡大家族」には、乗組員の親友も含まれている。
この事実を知るだけで、自分を縛っている何かから解き離れる人は多いのではないでしょうか。
選べないと思っていた「家族」は自分で選べること。
仮に自分の親や兄弟姉妹との関係に悩んでいても、「家族」は「結婚」などを通じて自分の選んで家族を作っていくものだ、という考え方も世界にはある。
「相手に言われたから」と結婚を決める人も多いかと思いますが、理由がなんであれ、それすらも「自分が選んだ」ことになるのです。
安楽死論争について
著者の幡野さんは安楽死についても常日頃からTwitterで問題提起をされている方です。
私自身は安楽死については賛成です。
この本を読んで、あぁ安楽死に賛成している人は「選べるか選べないか」の主導権が欲しいのだ、と感じました。
死ぬ、死なないというのはその結果に過ぎないんだと、何だかストンと腑に落ちたのです。
もともと日本人が「右にならえ」感の強い国民性とも言われています。
切羽詰まっていない。どちらかの選択肢を選ぶことで、生死を分けるような時代でもない。
だから「選ぶ」という行為について、普段はとても意識が低いのかもしれない。
それでも、流石に病気になると選ばざるを得ない。
年を取って、判断能力が鈍くなってからではなく、若いうちに病気になればなおのこと。
何が優先順位において高いのか、低いのか。限られてしまった時間を何に割くのか。
そしてそれだけ「選ぶ」ことを意識的に始めると、当然自分の最期についても選びたいと思うのは当然だと思うのです。
安楽死については当然反論もあると思います。
誰かに気を遣って「死」を選ぶ人も出るかもしれない。
弱者が安易に死を選ぶことになってはいけない、という意見もよくわかります。
ただ「安楽死を認める」「安楽死を認めない」、どちらを選んでもその影には弱者がうまれていることは忘れてはいけないと思うのです。
現状では確かに治療の過程などで「死」を選ぶことはできず、誰かに気を遣って「死」を選ぶ人はいないのかもしれない。
でもその影には数え切れないほどの「苦痛」に耐えている人もいるのかもしれない。
どうしても安楽死を「選びたい」と思った時に、海外の安楽死を施している施設に、まだ余力のあるうちに渡航し、そして死を選ぶ人もいるかもしれない。
国内で安楽死が選べれば、もう少し長生き出来た人もいるかもしれない。
安楽死に限らず「選ぶ」ということは、自分の人生の主導権を握る、ということを考えさせられる一冊です。